武田山の「武田」は、武田信玄とつながっていた
この週末、祇園町商工会で地元の盆踊りに射的のブースを出した。
武田山のふもとにある広島経済大学の学生たちも手伝ってくれた。
私にとって武田山は、何度も登ってきた身近な山だ。
祇園町商工会には「たけちゃま」というキャラクターもいる。
ここだけの話、その着ぐるみには私も何度も入ってきた。
武田山の歴史も以前から知っている。
でも、広島に住んでいても、「なぜ武田山という名前なのか」、その「武田」が誰なのかまでは、意外と知られていないかもしれない。
しかも、この武田氏。
あの武田信玄の武田氏とつながっている。
武田山には、本当に武田氏の城があった
武田山には、かつて銀山城(かなやまじょう)という山城があった。
ここを本拠にしていたのが安芸武田氏だ。
今でも城跡が残っていて、武田山という名前もこの武田氏に由来している。
面白いのは、城があったことだけではない。
今の祇園周辺には、中世には市場があり、各地から運ばれてきた物資も集まっていた。
毛利氏が広島に本拠を移すより前、この辺りは安芸国の政治や経済、交通の重要な場所だった。
今の祇園の街を見ていると、少し想像しにくい。
でも、今の広島市中心部が形づくられるよりずっと前、武田山の麓に人や物が集まっていた時代がある。
何度も歩いている場所だけど、そう考えると景色が少し変わる。
武田信玄とは、どうつながっているのか
「武田」と聞けば、やはり武田信玄を思い浮かべる。
では、広島の安芸武田氏とはどういう関係なのか。
系図を全部たどると長くなるので、ここでは簡単に。
南北朝時代の武田信武の嫡男・信成の系統は甲斐武田氏へ続き、後に武田信玄が登場する。
一方、次男の氏信は安芸国守護となり、安芸武田氏の祖となった。
つまり、
武田信玄の子孫が広島に来た、という話ではない。
もっと前に同じ武田氏から分かれ、甲斐と安芸でそれぞれ続いていった一族だ。
山梨の武田信玄と、広島市安佐南区の武田山。
ずいぶん離れているけれど、歴史をたどれば一本につながる。
毛利元就の初陣を、反対側から見る
広島の戦国武将といえば、毛利元就の方が圧倒的に有名だ。
その元就の初陣として知られる1517年の有田合戦。
相手側にいたのが、武田山を本拠にしていた安芸武田氏の武田元繁だった。
普段「毛利元就の初陣」と聞くと、どうしても元就側から歴史を見る。
でも、武田氏から見れば当然そんな物語ではない。
武田氏にも武田氏の事情があり、自分たちの勢力を広げようとして戦っていた。
歴史は、どちら側から見るかで少し違って見える。
その後も安芸武田氏は続くが、1541年には銀山城が落ち、安芸武田氏はこの地で滅びることになる。
毛利の歴史を知っていても、その前にこの地域にいた側から見直してみると、また違った広島が見えてくる。
たけちゃまの頭は、なぜ茶釜なのか
そして話は、たけちゃまに戻る。
祇園町商工会の「たけちゃま」は、武田山のお殿様をイメージしたキャラクターだ。
よく見ると、頭が茶釜になっている。
これにも武田山の歴史が関係している。
武田氏が滅亡するとき、再起のための資金として純金の茶釜を武田山のどこかに隠したという伝説が残っている。
もちろん、これは史実として確認された話ではなく、あくまで伝承だ。
たけちゃまの茶釜の頭も、この伝説にちなんでいる。
ここだけの話、私はその着ぐるみの中に何度も入ってきた。
改めて考えると、
なかなか壮大なものを頭にかぶっていたことになる。
武田山には何度も登っている。
その歴史も以前から知っていた。
それでも、改めてたどってみると面白い。
身近な武田山から安芸武田氏へ。
そこから武田信玄や毛利元就にもつながっていく。
そして今は、たけちゃまという形でも地域に残っている。
何度も登ってきた山だけど、歴史を知って歩くと、やっぱり少し違って見える。
次に登るときも、そんなことを思いながら歩いてみようと思う。
